尾道に来て、絶対に訪れたいと思っていたのが志賀直哉旧宅でした。
千光寺公園の展望台から文学のこみちを抜け、千光寺の境内を通り、
ずんずん階段を降りていき、やっとたどり着きました。
ここが旧宅の下にある《うずしお手水庵》
文学碑や石碑があります。
見上げると、、、、あっ、あれじゃない?
ありました。
写真でよく見る《志賀直哉旧宅》のアングル。
三軒長屋の一番奥が、志賀直哉の居宅でしたが、
旧宅跡は長屋を全部ぶち抜いて、手前の玄関から入ります。
玄関を入ったところで入館料を支払い、資料室になっている中の間を通り過ぎ、
奥の居宅跡から見学します。
志賀直哉が住んでいた部屋
直哉さんは、ここから尾道水道を眺めていたんだ・・・・なあ・・・。
あらら~これは。
正面の木が邪魔で尾道水道が見えません。
下の「うずしお手水庵」の樹木が伸びすぎてしまったようです。
もしも、もしも当時こんな景観だったら、
怒りんぼの志賀さんのことですから、ここは借りなかったか、
或いは下の家に怒鳴り込んでいたかも。。。ふふふ
ねっsmoky (id:beatle001) さん。
志賀直哉とビートルズをこよなく愛すsmokyさんは、12年前に訪問されています。
smokyさんの2006年の記事にも、
「部屋から左方向の桜の木が大きく伸びて景観をそこなっている」といった記述がありました。
市にかけあっても伐採がならなかったとの由。
しかし。
現在は正面ですよ、正面。smokyさ~ん。
これじゃ、寝転がって尾道水道を見るなんて不可能だわ。
もし当時こんな景観なら、暗夜行路の名文 ( 文学のこみちにもあった石碑の文 ) は、
この世になかったかも知れません。
景色はいい処だつた。寝ころんでゐて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと
鉄槌 を響かせて居る。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があつて、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌ひながら石を切り出してゐる。其声は市 の遥か高い処を通つて直接彼のゐる処に聴えて来た。
夕方、伸び伸びした心持で、狭い濡縁へ腰かけて居ると、下の方の商家の屋根の物干しで、沈みかけた太陽の方を向いて子供が棍棒を振つて居るのが小さく見える。其上を白い鳩が五六羽
忙 しさうに飛び廻つて居る。そして陽を受けた羽根が桃色にキラキラと光る。
六時になると上の千光寺で
刻 の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰つて来る。其頃から、昼間は向ひ島の山と山との間に一寸頭を見せて居る百貫島 の燈台が光り出す。それはピカリと光つて又消える。造船所の銅を溶 かしたやうな火が水に映り出す。
あぁ、やはり私は旧かなづかいが好き。
お部屋は陽があたって気持ちがいい。
掃除もゆきとどいて清々しい限り。
文机やランプ、トランクも、当時のものではありません。
ちょっとした小道具。
小道具といえば、
窓の左にチラッと見えるものにお気づきでしょうか。
外から見た方がわかりやすいかな? 瓢箪です。
短編「清兵衛と瓢箪」を意識しての小道具でしょう。
これは市の観光課? 文化振興課? 現場の方のアイディアかな?
少しばかり、頑張りすぎの感じがしました。(;'∀')
旧宅は ( これはあくまで個人的な意見ですけれど ) 演出効果はない方が好きです。
古ければ古いまま、もちろん壊れそうで危険なのは困りますが、なるべく現状維持のものが見たい。
その方が想像力が広がるような気がします。
暗夜行路にこうあります。
彼の家は表が六畳、裏が三畳、それに土間の台所、それだけの家だった。
彼は町から美しい
更紗 の布 を買って来て、そのきたない処を隠した。そして隠しきれない小さな傷は造花の材料にする
繻子 の木 の葉 をピンで留めて隠した。
今では綺麗に漆喰が塗り直されています。
仕方がないのかな。。。
この木戸は、三軒長屋の志賀さん宅の玄関です。
現在は長屋がぶち抜きになっていて、この玄関から入ることは出来ません。
竈は当時のものだということでしたが、管理人さんから面白い話を聞きました。
志賀直哉さんはとても寒がりで、どてらを着て、ガンガンに暖房をたいて過ごしていたんですって。
当時尾道市内でガスを取り付けていた七百三十六軒中、ガスの使用量が久保にある竹村屋という料亭に次いで二番目に多かったそうです。
その寒がりようは尋常ではなく「暗夜行路」にもこう記されています。
兎に角、家は
安普請 で、瓦斯 ストーヴと瓦斯のカンテキとを一緒に焚けば狭いだけに八十度までは温める事が出来たが、それを消すと直ぐ冷えて了ふ。寒い風の吹く夜などには二枚続の毛布を二枚障子の内側につるして、戸外 からの寒さを防いだ。それでも雨戸の隙から吹き込む風で其毛布が始終動いた。畳は表は新しかったが、台が波打ってゐるので、うつかり坐りも見ずに平つたい、らっきょう ( 旧字なし ) の瓶を置くと、倒した。其上畳と畳の間 隙間風を防ぐために毛布をつるしたり、畳の間には読み終わった雑誌をちぎって火箸でねじ込んだりがすいてゐて、其処から風が吹き上げるので、彼は読かけの雑誌を読んだ処から、千切り千切り、それを巻いて火箸で其隙へ押し込んだ。
温暖な瀬戸内海とはいえ、山の斜面に建った安普請な部屋の寒さは酷かったのかも知れません。
ゆっくりと部屋を満喫したのち、手前にある資料を見てまわりました。
志賀直哉ゆかりの地
《志賀直哉にかんざし》
奇妙な展示物ですが、直哉さんが引き払った後に置いていった荷物の中にあったものだそうです。
こんなに沢山のかんざし、いったいどういうワケなのか。
管理人さん曰く、
尾道の東、かんざし灯篭があるあたりは昔 花街や芝居小屋があって、
志賀直哉は度々に気晴らしに出かけたのだそうです。
「かんざしは贔屓の芸者にあげようと思ったものかも知れません」と。
それではコチラは?
一人住まいの志賀直哉に、これほどの酒器が必要だったとも思えません。
骨董の趣味もあったのでしょうか。
暗夜行路の主人公-謙作は、本通りにある郵便局に為替を受け取りに行くついでに、
近辺の瓢箪屋、骨董屋を冷やかして歩いたようですが、
実際の志賀直哉もまた、執筆がはかどらない時に商店街を歩きまわって蒐集したのかな。
意外なことに、志賀直哉旧宅は斜面の下の方にありました。
有名なあの写真からは、かなり高い所にある印象でしたが、
展望台からよりもむしろ平地に近い場所に位置します。
眺めが良い割に、商店街までさほど苦労なく上り下りできるのに驚きました。
「志賀直哉旧宅」でもうひとつ愉快だったのが管理人のおじさんでした
おじさんの志賀直哉愛❤は半端ない。
作品に対するお話が止まりません。
「志賀直哉と父親の確執はそれは凄いものだったんですよ。
『清兵衛と瓢箪』主人公の清兵衛と父親は、そのまま志賀直哉と父親の関係です。
志賀直哉はこの短編を読売新聞で発表しました。
彼が投稿先に読売新聞を選んだのは、父親が読売新聞を読んでいるのを知ってのこと。
父親に対する抵抗だったんです。」
特に父親とのエピソードや作評になると、ギアがトップに入ります。
私たちは授業を受ける生徒のようになりました。
古い文学に興味のない MOURI はうまいこと逃げましたが(笑)私は居残り授業 (;'∀')。
私なりに作品考があるので「うーん どうかなぁ」と思うこともありましたが全部受講しました。
「おじさんの話、君も困ったんじゃないの? 何回か腰を折ってはみたけどダメだったな」とMOURI 。
私も何度か ( 失礼ながら ) 話の腰を折ってみたけれど「話が途中になりましたが」と、
話すべき内容はきちんと続きました。
「おじさん、昔、学校の先生だったりして」という私にMOURI は、
「いや~どうかな。もしそうなら『おいそこの2人、キチンと話を聞け』と叱られたと思うよ。」
「なるほどそうかもね」
平日でお客さんも少ないし、ちょっと暇だったところにもってきて、
志賀直哉に興味ありそうなのが来たからっていうんで、張り切ってくれたんでしょう。
ふと、ピーターシェーファーの喜劇「レティスとラベッジ」の冒頭のシーンが思い出されました。
黒柳徹子演ずる主人公が、毎日毎日ガイドをしている内に、マンネリした解説がつまらなくなって、どんどん話が漫才のようになってっちゃうの。
黒柳さんの早口が面白くて、そこにおじさんの顔がオーバーラップ、笑いがこみあげてきました。
古い建物が残る街、それが尾道の魅力
志賀直哉が尾道に来たのは明治45 ( 1912 ) 年11月、29才の時でしたが、
翌年4月には ( 作中の主人公-謙作同様、軽い中耳炎にかかり ) バタバタと尾道を引き上げています。
実質的には4ヶ月ちょっとの尾道生活だったんです。
今でこそ「小説の神様」として人口に膾炙する志賀直哉ですが、29才の彼がどのくらい有名だったかを考えると、尾道に旧宅が残っているのが不思議に思えてきました。
学習院の仲間たちと同人誌『白樺』を創刊したのが、2年前 ( 27歳) の時。
初めて原稿料を貰った ( 「大津順吉」で中央公論から ) のが29歳のこの年のこと。
尾道の人たちの多くは、坂上の三軒長屋に住み始めた男が小説家だと知らなかったことでしょう。
そんな彼の住んだ家が大切に保存されている、ある意味これは奇跡ではないかしら。
もし彼が人気作家にならなければ、「暗夜行路」に尾道のことを書かなければ「志賀直哉先生旧宅」は現存しなかったかも知れません。
でも、それだけではない。
古い家を大切にする尾道の気質がなければ、100年も前の長屋は姿を消していたはずです。
尾道の海岸沿いにはレトロな建築物が沢山ありました。
山の斜面にも古い民家が沢山ありました。
古い住居を毀さず大切に修理をして住み続けるという取組みは、NPOのゲストハウスにも見られました。
坂の途中の廃家を修理する男の人にも、その心意気を感じました。
そうやって、これからも尾道は素敵な街であり続けることでしょう。
そんな尾道をまた訪れたいと思いながら旧宅をあとにしました。