Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

蒲原有明旧居の謎

 

コロナが蔓延して、趣味のぶら歩きが出来なくなっています。

大好きな鎌倉はおろか近隣の徘徊も出来ないので、古い写真やブログを見て楽しんでいます。

実際に歩かなくても、昔たどった場所で気になった物事を調べる作業も 結構面白いものです。

 

今回も、8年前 ( 2013年6月 ) に鎌倉宮を訪問した時の疑問を解決したくなりました。

鎌倉宮から覚園寺に向かう途中に、蒲原有明旧宅の碑があったんですが、

この旧居のことを調べてみることにしました。

 

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「蒲原有明旧居跡」と書かれた文字の下に、 ( 川端康成仮寓 ) と書いてあります。

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今回調べたのは、

蒲原有明という人物のこと、何故ここが川端康成仮寓なのか、そしてその辺の経緯。

 

 

碑には、右のようなことが書いてあります。

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蒲原有明は、1876 ( 明治9  ) 年3月15日、東京麹町に生れた。本名は隼雄 ( はやお )

ペンネームの有明は、父忠蔵の出身地 佐賀県に因んだものである。

明治27年、国民英学会を卒業する頃には詩作を始めている。

初め小説に手を染めたが、島崎藤村を識り詩作に専念。

1902 ( 明治35 ) 年1月、初期新体詩風の第一詩集「草わかば」を発表する。

次いで翌年、第二詩集「独絃哀歌」で象徴詩への独自な展開をみせ、

1905 ( 明治38 ) 年 象徴詩として成熟度の高い「春鳥集」を出版した。

1908 ( 明治41 ) 年、第四詩集「有明集」で詩風の完成を示し、わが国近代象徴詩の第一人者と呼ばれるに至った。

 

ここは、1919 ( 大正8 ) 年5月に東京中野から鎌倉雪ノ下に移住した有明が、翌年3月に新居を構えた所である。1923 ( 大正12 ) 年9月1日の関東大震災で被災し、大破した家屋の修理はしたが、12月に静岡県鷹匠町に移住する。

1945 ( 昭和20 ) 年6月には戦災に遭い、9月にふたたびこの地に戻った。

この家には、1937 ( 昭和12 ) 年から川端康成が有明の持ち家と知らずに住んでいたが、快く迎え入れ、翌年月に長谷に転居した。

 

1948 ( 昭和23 ) 年7月、日本芸術院会員となる。

1952 ( 昭和27 ) 年2月3日死去。77歳であった。

この碑は、1982 ( 昭和57 ) 年、有明没後30年を記念し、野田宇太郎 ( 詩人。1908 ( 明治41 ) 年~1984 ( 昭和59 ) 年 ) を中心に「文学碑」謹碑の計画がなされたが実現されず、この度、孫である蒲原一正により建立された。

2010 ( 平成22 ) 年2月3日

 

 

石碑には、家を移転した経緯が書かれていますが、下記の一文の主語があやふやで、わかりずらい。

昭和20年6月には戦災に遭い、9月にふたたびこの地に戻った。

この家には、昭和12年から川端康成が有明の持ち家と知らずに住んでいたが、快く迎え入れ、翌年月に長谷に転居した

⤴ 翌年月長谷に転居したのは、川端?  蒲原?

 

 

蒲原有明 - Wikipediaに、家についての文章がありましたが、こちらはもっと意味不明。

1919年に鎌倉に移り、関東大震災後は静岡へ移転。この際改修した自宅は貸家とし、1945年から1年間川端康成が泊まっていた。  

⤴ 意味不明というか、こちらは完全に間違っています。 

 

 

そこでまず、石碑にあった蒲原有明の『夢は呼び交す』を読んでみることに。

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この本は詩集ではなく、自伝です。

著者は自身を《鶴見》という第三人称で書いています。

本の中に登場する人物は、鶴見同様仮名であったり、実名の人もいて混乱します。

仮名の人物が誰かなのかは、他の資料と突き合わせる必要がありますが、

とりあえず川端康成に関しては実名だったので助かりました。

 

「解説」を書かれたのは、川端とも蒲原とも交流のあった野田宇太郎という方でした。

氏の解説により、蒲原有明が鎌倉を離れた経緯もよくわかりました。

※ 緑字は私の補足

1919 ( 大正8 ) 年 、有明夫妻は東京を離れ湘南の鎌倉に移ることにして、二階堂の鎌倉宮に近い325番地に300坪の土地を求め、その大半を樹木の多い庭として小ぢんまりとした家を建てた。

それまで雪ノ下に仮住居をして、1920 ( 大正9 ) 年3月に二階堂の新居に移った。

 

1923 ( 大正12 ) 年9月1日の関東大震災のため、ようやく住み慣れた新居も酷く破損したので、世話をする人があり二階堂の家を修理して貸家にし、有明夫妻は環境がよいという静岡県鷹匠町に読書や著作にふさわしい家をみつけて移って行った。

 

1945 ( 昭和20 ) 年6月20日の米軍の大爆撃で静岡市の大半は灰燼に帰し、蒲原家もまたすべてを失った。既に70歳に達していた有明は、小笠原流生花の宗匠であった老婦人と共に知り合いの農家に着のみ着のままで一時避難したが、鎌倉で出入りの植木屋に管理を頼んでいた二階堂の家へでも戻るより他はなかった。

 

幸いなことにその家には1935 ( 昭和10年 ) から作家の川端康成が住んでいたので、有明夫妻は川端家に交渉して、元茶室であった六畳間、川端が物置に使ってしたその部屋を明けてもらった。

蒲原有明著『夢は呼び交す』の「解説」 ( 野田宇太郎 記 ) p.256より

 

 

ここまで調べてきて、

資料によって川端康成が入居した年が食い違っていること気づきました。 

 

石碑には「1937 ( 昭和12年 から川端康成が有明の持家だと知らずに住んでいた」とあり、

Wikipediaには「1945年 ( 昭和20年 ) から1年間川端康成が泊まっていた」とあり、

『夢は呼び交す』の野田解説では「1935 ( 昭和10年 ) から川端康成が住んでいた」とあり、

林房雄著『文学的回想』で、林さんは「東京に飽きていた川端さんは ( 林の隣家に ) 気軽に引っ越して来て、鎌倉組の仲間入りをすることになった。昭和十年か十一年であったと思う。川端さんはこの家に一年か二年ほどいて、大塔宮の付近に手頃な借家を見つけて引っ越して行った。」と書いています。  

Wikipediaの1945年は完全に間違いなので除外するとしても、

昭和10年だったり、12年だったりとまちまちで正確にはわかりません。

 

どうして入居年がハッキリしないのか

川端さんの日記のようなものが世に出ていたとしたら、わかるかも知れないが、

そこまで手を広げたら収集付かなくなる。←いや、もう既に収集ついてないです。

 

そんな中、実に面白い事実にぶちあたりました。

これが混乱の元凶ではないかと思う話です。 

 

  • 蒲原有明は、鎌倉の自宅が誰に貸し出されていたのか知らないでいた。
  • 川端康成も、借りた家の家主が蒲原有明だと知らないで住んでいた。

 

借家人も大家も、間に人が立っていて、よく知らないて過ごしていたのです。

実におおらかな時代、というかおおらかな人たちだ。

双方が「知らなかった」のは、不動産屋でない素人が差配していたからでした。

出入りの植木屋さん

蒲原有明が差配を頼んだ植木屋は、家を誰に貸していたかを蒲原に報告してなくて、

川端の方にも、家の持主をちゃんと言わずにいたようです。

この植木屋さん、いい加減な人だったのか、トラブルもあったようです。

わたくしが有明夫妻にはじめて挨拶したのは、それとは知らずに川端を訪ねた時で、わたしはもちろん川端もその家の本当の家主が有明であることを知らなかったという。

有明は静岡に移ってからすべての差配を頼んでいた植木屋にまかせていたので、

川端は植木屋を家主とばかり思い込み、家賃などでいくらかのトラブルもあったらしい。

蒲原有明著『夢は呼び交す』の「解説」 ( 野田宇太郎 記 ) p.257より

 

 

さて。

ここまでは、外堀から経緯をたどってきましたが、

『夢は呼び交す』の本文にも、作者本人が当時のことを語っています。 

わたしたちには、こうなった ( 空襲で静岡の家を焼かれた ) 以上、鎌倉のもとの古巣にたち帰るほかに途はない。出て来たとおりにまた引き返すのである。

しかしながらそこには大きな無理があった。

前にも書いておいたが、その家は関東大震災後、他に貸すことにしていたのである。

現在も明( ←ママ ) いているのではない。その家がここ数年間は川端さんの住居になっている。

それが作家の川端康成さんであることは、つい昨年あたり知ったのである。

迂闊なようであるが、貸家についてはその地の管理者に任せきりにしていたからである。

作家の川端さんとわかれば、たとえ面識はなくとも、文芸道のよしみがある。

無理は無理でもお詫びをしよう、それも口先ばかりでなく、朝晩のこころがけによって、家族ともども無害のお詫びをしてゆこう。窮通の途はその他にはあろうともおもわれない。

この社会の激動のさなかで、家族をあげて漂浪の生活に陥ることが必ずしもないと誰が保障しよう。一歩を誤れば転落する。わたくしは野垂れ死にはしたくないとおもったのである。

 

無理に押しかけてゆこうとするのではない。古巣であればこそわたくしを自然に迎えてくれるような気にもなる。わたくしはその古巣の片隅に疲れた翼を休めたいばかりなのである。人間は生きてゆくには夢も大切である。幻滅を知らぬ夢である。野たれ死では夢とはいわれない。わたくしは古巣に引込んで文芸道による死にかたをしたいと念じている。いうまでもなく、それは「野晒し」の夢である。

蒲原有明著『夢は呼び交す』「野ざらしの夢」p.228より

 

鎌倉の家の管理者のもとへは直ちにその手順について詳しい手紙を出すことにした。この頃の事情では鎌倉との書信の往復に半月を要する。それでは遅れるばかりである。無理とは思わぬでもなかったが、出発予定日をこの月 ( 9月 ) の十五日と定めて、そう確かに書き添えてもおいた。

蒲原有明著『夢は呼び交す』「野ざらしの夢」p.230より

 

 

汽車は時間表どおりに運行して、あっけなくも、わたくしたちを鎌倉駅の歩廊に放り出した。

わたくしはその無表情を憎みたくもあった。

しかし現実はどこまでも無表情である。払暁に草薙駅を仰山らしく出発してきたことが今更に面はゆい。鎌倉駅とても余所と異なったところもなく、歩廊に放り出されたわたくしは、忽ち人と貨物の氾濫と堆積のなかに揉まれてゆくのである。

 

わたくしは娘を管理者のところへやって、車を借りてこさせた。持ち荷も手ずから運ばねばならぬのである。そのあいだ山妻と共に駅の休憩室に腰をおろし荷物の番をしていた。

 

~中略~

 

わたくしたちは間もなく管理者の家に著いて、しばらく休憩した。鎌倉宮の前である。ここまで来てみれば、わたくしの古巣とは僅か百歩の隔てがあるにすぎない。

 

川端さんへは山妻に交渉させて、無理のお詫びを述べさせた。川端さんもこころよく了解された。六畳一間を明けるために多少の時間はとられたが、それでもあかるいうちに、われわれ三人の家族はもとの古巣におちつくことができたのである。

蒲原有明著『夢は呼び交す』「野ざらしの夢」p.231より

 

因みに、この頃の有明は耳が遠くなっていたため、家族のもの以外との会話が出来ない状況だったようです。

 

ふー。

気になっていたことがわかると、当時の石碑も生き生きと感じられます。

あとは、何故、昭和57年 有明没後30年を記念し、野田宇太郎を中心に「文学碑」謹碑の計画が頓挫したのか。。。。

ひとつ堀っくり返すと、芋づる式に新たな疑問が発生するのは困ったものです。

それから、Wikipediaも直しておかないといけませんかな。

 

 

 

 

 

本日の昼ごはん

MOURI 作 サッポロ一番 とんこつ味

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前日、キャベツを刻んでジップロックしておいたものを、

何気におススメして、トッピングしていただいた。

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本日の夜ごはん

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揚げ物系が並んでしまいました。

中央の鯵の南蛮漬けは、昨日私が作って冷やしておいたもの。

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今日「鯵の南蛮漬け食べるぜっ」と言ったのに、揚げ物買ってきてくだすった夫。

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おいしいから許す( ´艸`)

トマトは昨日アキダイで買ったもの。

群馬のトマトだそうですが、今まで生きてきて一番美味しいトマトでした。

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本日のお酒 トリスクラシックの水割り

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備忘録 今回の参考資料:

  蒲原有明著『夢は呼び交す』

  林房雄著『文学的回想』

 

下は、林房雄が記した川端康成の転居の次第

( 著書-林の ) 二度目の鎌倉住いは浄明寺宅間ヶ谷。

家族も母と伯母、妻と2人の息子に女中という風に増えていた。

家賃は三十五円、家主は小泉三申翁であった。

宅間ヶ谷の借家は三軒が一かたまりになっていて、間は生垣で区切ってあった。

そのうち二軒が空いていたのを、一軒を私が借り、一軒を川端康成さんにすすめた。

 

東京に飽きていた川端さんは気軽に引っ越して来て、鎌倉組の仲間入りをすることになった。昭和十年か十一年であったと思う。

川端さんはこの家に一年か二年ほどいて、大塔宮の付近に手頃な借家を見つけて引っ越して行った。

家の持主は詩宗蒲原有明翁であったが、川端さんも私達も長い間そのことを知らなかった。

沈黙した詩宗は鎌倉の家をそのままにして、静岡あたりに隠棲していたのだ。

戦争の末期であったか戦後であったか、有明翁が帰って来たので、川端さんは現在の長谷の宏荘な大邸宅に引っ越した。

これも借家である。

林房雄著『文学的回想』p.138より