稲佐の浜へと思ったが、まだこんな所が残っていた。
左には「永職館」 右には「

中には入れないらしいが、立派なお屋敷が見える。

門の塀にはこんな案内状

永職館
寛文五年 ( 1665 )、江戸幕府は全国の神社統制のため「諸社禰宜神主法度」を公布しました。
これは京都の吉田家を介した神社・神職支配の一元的系列化を策定したもので、出雲大社は『古事記』『日本書紀』などの古典に特筆される神話伝承、古代以来の格別な祭祀の伝統を主張し、これに異を唱えました。
その結果、同七年 ( 1667 ) 五月七日、霊元天皇 ( 御即位1663~1687 ) は古代以来、悠久の歴史を綴る出雲大社、その祭主である出雲國造 ( 出雲大社宮司 ) の伝統・道統により特別の在位立場を認められ、出雲國造はこの法度に関わらず、古代以来の伝統・道統に従って、これからも長くこの職に仕え潔斎を重ねて祭祀に専修するようにとお命じになられました。
これを「
永 宣旨 」と言い、以来、出雲國造館 ( 千家國造館 ) をこの宣旨の中にある「出雲國造は、もと寿詞 を奉し、恒に潔敬 を異にし、神のため自ら重んず、乃 し須 く永くその職を掌どるべし」より、特に「永職館 」と称しています。
なんだか難しいことが書いてある。
帰宅したらよく調べますが、ざっくり理解できたのはこんな……
- 江戸幕府が、日本全国の神社の神主をすべて管理しようとしたが、出雲大社の国造及び宮司が反論。
- 幕府と出雲大社の間に入って仲立してくれかのが当時の天皇・霊元天皇。
- 霊元天皇は「太古の昔から出雲大社とそれに仕える神職たちは、他の神社とは違う。大社は永遠に守護すべきもので、創建以来の出雲のやり方は尊守り未来永劫継承していくべきものだ。大社の神官の職は永遠に継承すべしだ」と言ってくれた。
- そのお告げが「永宣旨」といって、それを当時の将軍 ( 第3代 徳川綱吉 ) が容認。
- お陰で出雲大社は他の神社と別格の扱いとなり、国造と神官の職務を幕府の管轄外で出来るようになった。
とにかく出雲大社は別格なんです。
さて。
雨も降ってきたし、どうしようかと思ったが「稲佐の浜」まで頑張ります。
出雲大社から稲佐の浜までの写真はありません。
傘をさしながら、なだらかな坂をふうふう言いながら歩いたから。
稲佐の浜までは歩いて10分と聞いたが、その人その人言うことが違う。
聞く人によっては20分以上はかかるよと言うんです。
「まだかな~」とひーこら言いながら歩いていると、海岸の方から帰ってきたらしい二人連れの青年がいたので聞いてみました。
「もう少しです、5分くらいかな」と彼は言ったけど、結局そこから15分は歩いたかな。
とにかく雨の行軍は辛かった。
稲佐の浜

稲佐の浜は、神在月に八百万の神々を迎える「神迎神事」が行われる神聖な浜辺。
と、聞いたので是非来ようと決めていた。
ところが、出雲大社の脇にあるお店の方からこんなことを
「浜へは、出雲大社にいらっしゃる前に行かれた方がよかったのに」
えっ? 順番があるんですか?
そう、あるんですって。
稲佐の浜の砂は、出雲大社に持っていくとご利益があるそうです。
- 「稲佐の浜」の砂をもらう。
砂は波が打ち寄せて来た時にすくうのが良い。
波が引く時にすくうと “運気が引く” といわれる為。 - 「稲佐の浜」の砂を持って、出雲大社本殿の参拝をしてから、
本殿後ろの素鵞社に行き、そこにある御砂と交換する。 - 持ち帰った御砂は家や敷地の浄化に使う。
つまりお清めの砂になる。
詳しくはこちらのサイトさまをご参照ください ⤵
砂浜に来て「おお、ここが神迎えの浜か」なんて言って、
もう少し遅ければ「あら~夕陽が綺麗」なんて感動するだけの場所じゃなかった。

もう遅い。。。。
とにかく、雨のそぼふる中、稲佐の浜を眺めて早々に失礼することにします。

「俺も写真とっとくかな」

出雲大社からの道は、なだらかな坂で退屈な道だったので、
帰りは民家のある道を選びました。

民家の道といっても「神迎えの道」という素晴らしい名前がついた道みたいで、
アスファルトではなくて、オレンジ色に舗装されたそれはそれは歩きやすい道でした。
※ でも、この辺は緩やかなアップダウンの道。

美味しそうな素敵なお蕎麦屋さんを通り越し、

素敵な飾り付けのお花が並べてあるお家も通り越し、

出雲大社のバス停からは、一畑バスでぶーーーんとJR出雲市駅まで30分ほどでホテル到着。
ホテルにチェックインをしたら、お待ちかねの居酒屋へ繰り出します。
つづき