北方謙三 著『黄昏のために』読了
画家である「私」は、今日も独り、絵を描いている。
モチーフは人形、薔薇、動物の頭骨、階段……
裸婦は描くが、風景画は描かない。
物は物らしく、あるべき姿を写し取る。
ふた月に一度アトリエに訪れる画商・吉野に絵を売り、腹が減ったら肉を焼いて食べる。
秋には山で枯れ葉を集め、色を採集する。
対象を見、手指を動かす。
自分がほんとうに描きたいものを見出すまで――。
***
「誰もがいいと思うから、絵は売れるのだ。
しかし、ほんとうは誰にもわからない。
そんな絵が、描けないものか」
——「穴の底」より
***
〝究極の絵〟を追い求める一人の画家の〝生〟を、
一つひとつ選び抜いた言葉で彫琢した、魂の小説集です。
孤高の中年画家が抱える苦悶と愉悦が行間から匂い立つ、濃密な十八篇がここに。
文芸春秋 BOOKS より
情熱大陸で、北方謙三さんを見たのがキッカケで読み始めたのがこの二冊。
この二冊は面白かった。
昭和の時代には、こういう暴れん坊が沢山いたなと懐かしく読んだ。
令和の時代には、こういうハードボイルド系男子はいないもの。
で。
今回の作品はというと、とても幻滅した。
多くの称賛を浴びる大家なので、私のようなことを書くのが1人くらいてもいいだろうとあえて書く。
画家を何だと思っているのだろう、と思った。
どこかのインタビュー記事に、
「〈私〉を俺と思われるようにしたかったから、日本文学の伝統である私小説の手法を使った。小説家だと完全に俺になるから、違うジャンルの表現者に。50代後半にしたのは、創作のレベルの感性がぴったり合うんだよ。実年齢は76で後期高齢者だけど、書いていて全く違和感がなかった」
とあったが、違うジャンルの表現者にという理由で何故、画家なんだろうと疑問に思う。
違和感を感じたのが5章「スクリーン」
かいつまむと、こんな筋書き。
画家は映画館で、2か月ほど毎日数時間ヌードモデルにしていた女と会う。
映画が終わり、女と連れ立って外に出ると雪が降っていた。
画家はとっさに空車をとめて、女を乗せアトリエに向かう。
★★★
「乾いたタオルを、お借りできますか」
女は、素早く全裸になり、腰のあたりと乳房の下を、軽く擦っている。
肌についた下着の痕を、消そうとしているようだった。
★★★
私は、音楽を切った。
かすかな恐怖がこみあげてきて、私は目を閉じ、なにも考えもせずに、終わりだと女に告げた。
女が衣服をつける気配が伝わってきたが、私はそちらに眼をむけなかった。
「描けなかったの?」
「乗れなくてね」
「乗る乗らないの問題じゃない、とあたしは思うけどな」
うるさい、と言いそうになり、なんとか呑みこんで口を噤んだ。
「女を裸で踊らせて、喜んでいただけね」
「君にできることは、二つのうちどちらかだ。下へ降りて帰るか。隣の寝室に行くか。さっさと決めてくれないか」
★★★
女がアトリエを出ていく。
女は帰るのだと思ったが、身づくろいの気配だけがあり、私は顔をあげた。
寝室のドアが開いていて、ベッドのそばに女が立っている。
「
最初 からよ」女は、ちょっと悲し気な顔で言った。
「最初からしなくちゃ」
私はこれを読んで、芸術家とプロのモデルには思えなかった。
売れっ子なのかもしれないが二流の画家と低級モデル・・・。
著者の顔と、「違うジャンルの表現者に」という言葉が浮かんでしまったし、
画家やモデルを冒とくしているようにさえ感じてしまった。
ご本人がはばからずに「<私>を俺と思われるようにしたかった」と言うのだから、
「だったら小説家でいいではないか、何故画家をモチーフに選んだのか」と思った。
私が何に憤っているかというと、絵のモデルを大切にしていないところだった。
かつて著者が書いていたハードボイルドの男であったら、こんな女の扱いで問題はない。
でも芸術家にとってモデルというのは、もっと崇高な対象なのではないかと思った。
ピカソでも、デ・キリコでも、他の沢山の画家たちも、妻や恋人や愛人をモデルにしている。
でも彼らは女たちを自分の絵のモデルにしようとするその瞬間には、肉体をむさぼるような感情を持ち合わせるのではなく、もっと真摯な情愛や、美に対する尊敬があるのではないかと、思えてならない。
だから、このシーンの二人の会話の低俗さに驚いた。
モデルが急にゾンザイな口調になるのも解せなかったし、
画家が寝室に行くかという選択肢をつきつける理由もわからなかった。
最初の方でこの話があった為、あとの章は、画家の話というよりも作者の顔が浮かんでしまい、本へのめりこめないまま読了となった。
本日の昼ごはん 2024年12月29日
明太子パスタ
本日の夜ごはん 2024年12月29日
昨日、練馬で購入した豚肩ロースで作ったチャーシュー
とてもよくできました
今日のさつま揚げはチーズ入り