「めぐり逢うことばたち」というサイトで、島木健作が出所後身を寄せた実兄の家の場所を知り、病院の帰りに行ってみることにしました。
実際に入った路地は、こんな感じでした。
狭い路地だし、突き当りは行き止まりだし。
行き止まりだと知らないで入ってくれば、堂々としていられるものの、
なまじ火保図で「ドンツキ」と知っているから、居心地が悪い。
狭い幅の路地で、用もない人がウロウロしていたら目立つ。
カメラを持っていたら、完全に不審人物。
「スミマセン お邪魔します」と小さな声でいいながら進みます。
共同の井戸かしら。
そういえば。
前回の話の続きですが、この場所に関連する人物が、島木健作以外にもいたんです。
先日読み終わった齋藤弔花の「国木田獨歩と其周囲」という本に、
弔花がここ住んでいた三島霜川を訪ねている記述があったんです。
「霜川を一篇風呂に入れようではないか」と君は新石町で発議した。二人は行水を済ましたところへ霜川が訪うて来た日だつた。霜川は紅葉門下とは云ふものゝ、外様で、徳田秋声に兄事してゐた一人、偏屈人で、赤門前の裏長屋に住んでゐた。
本郷の通りにこんな長屋があつたことは今の人は知るまい。両側に汚い二間宛の家が五六軒づゝの割長屋で、その奥に古い大木が空つ風にビュービュー鳴ってゐた。霜川の家庭は母と妹たちは向ひに住まはせ、彼は南側の一軒二間を占領してゐた。
彼の家で手洗盥 ( たらい ) や、齒礎、楊枝は見たことはない。萬年床がはみ出してゐる。反古の山の中に坐つて、夜つ徹 ( ぴ ) て何か書いてゐた。鶏の啼く頃、くるりと萬年床に潜り込んで寝る。年中戸締りをしたことはない。夜遊びに更けて、歸るに家のない連中は、本郷のこの槐 ( えんじゅ ) 長屋の家に泊り込んだ。霜川は、何日も顔を洗つたことはない。毛深いので、指の關節の下には、野蟹のやうな毛が生えてゐるが、その毛穴は垢に埋まつてゐた。爪を切つたことは滅多にない。うるさく伸びると、齒で噛み切つてゐた。
その癖茶と菓子は贅澤で、雜誌社で原稿料をとると歸りには、人力車で、あちこち駆け廻り、両方の袂には、玉露と煙草をぶらぶらさせ、菓子の皮つゝみを懐に忍ばせてゐた。
小杉天外らの小説の代作などをして「自分の方が著名人より巧いだらう」と氣焰 ( きえん ) を吐いてゐたが、いつしか小説を止めて演藝畫報に入つて晩年大阪で何十年振かで逢つた。これも今は居ない「霜川はどうしたらう」と南湖院で君が問うた「ドウしてさういうことを不意に聞くのか」と私が訊くと君は「これを見てくれ」と腕を見せると、少し垢ついてゐたが、これが清潔な君には余程氣になつたらしい。「あの垢右衛門のことを思ひ出した」とのことだつた「紅葉の又弟子の中でもあゝいふのが居るから、大いに人意を強くする」と苦しい中から苦笑したある日のことが思ひだされる。
本を読んだ時には、まさか本文の「赤門通りの裏長屋」が、この場所とはつゆ知らず。
直後に出会った、KAGURAGAWAさんの「めぐり逢うことばたち」の記事で、
この場所こそが、それであると判り驚いたのです。
敬愛する作家 島木健作さん、そして齋藤弔花さんがこの場所に縁があると知り、
こうも偶然が重なると、お2人に導かれたような気がしてきました。
「両側に汚い二間宛の家が五六軒づゝの割長屋で、
その奥に古い大木が空つ風にビュービュー鳴ってゐた」か。
突き当りに、鳥居が。
ビュービュー鳴っていたという大木は、このことかしら。
・・・でも今は、こんな姿になってしまってました。
さて、今来た道を戻ろうか。
東大が見えてきた。
赤門
東大赤門のはす向かいに、今でもこんな路地があって。
その長屋に作家たちが住んでいた。
島木健作は、兄の住まいに身を寄せ、兄の経営する古書店で働いていた。
三島霜川の友人たち ( 夜遊びに更けて帰るに家のない連中 ) は、本郷のこの槐 ( えんじゅ ) 長屋の家に泊り込んだ。
墓地に囲まれた、あまり良い立地とはいえない場所なのに。。。
何だか、若い作家たちの息吹が聞えてきそうで、いい時間が過ごせたなぁ。
さて。
もう少しこの界隈をうろついてみようと思います。