母危篤の知らせ受けて、急きょ飛び乗った最終新幹線。
上田駅から最終のしなの鉄道に乗れました。
翌日。
母の死去の手続きやらなんやらで上田市役所に行きます。
書類が出来る間、市役所の周りを散歩しました。
市役所の隣に、お堀付きの学校が。
長野県上田高等学校は、上田藩主屋敷跡にあるようです。
凄いなぁ、上田高校の生徒は。
毎日の登校が、登城 ( 藩 ) だなんて。
上田藩主の居館は、真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形 ( おやかた ) 」と呼ばれていました。
居館の遺構である表門・土塀・濠等に往時の姿をとどめています。
表門は、藩主松平忠済 ( ただまさ ) 時代の寛政2年 ( 1790年 ) にその前年消失した居館とともに再建されたものです。
前面には、四本の太い角柱が並び、中央間には大板扉を釣り、左右には潜りの扉がつけられ、後部の控柱は十六面に削った通し梁でつないでいます。
創建当時の様式がよく保たれており、長野県下最大規模の薬医門として貴重な存在です。
土塀は江戸時代末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残し、全体として江戸時代の大名屋敷の外廻りを知る良い例です。
但し、土塀の下部と濠の周囲の石積みは、崩落防止のために最近施工されたものであり、濠の幅の道路の拡張により狭められています。
上田市教育委員会
濠の水はありませんでした。
少し先に上田城下の絵図がありました。
上田城三の丸内にある現上田高校の敷地は、真田氏以降、仙石氏、松平氏と続いた上田藩主の居館跡であり、「
御屋形 」と呼ばれていた。四囲に掘と土塁をめぐらした陣屋の構えを取っていた。堀を含めた敷地の広さは、東西が七十四間三尺 ( 135.5m ) 南北が七十四間二尺であった。
屋形の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようだった。
屋形は入口側から、
御表 ・勝手・御奥 の三つの殿舎群に分けられていた。御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。
上田市史より
市役所の用事が終わり、病院へのバスに乗ります。
今日は車でないので、上田駅から初めてのバス。
ホテルで教えてもらった乗り場で待つと、定刻より1分前にバスが到着。
走り出したのはいいけれど、ん?
何だか変。
病院とは反対の方向に向かっています。
「これは回り道をしていくのかな」と思いましたが、やはりおかしい。
教えられた鹿教湯線というのは、下秋和車庫から上田駅経由、鹿教湯温泉までのルート。
私は間違えて、反対方向の下秋和車庫行に乗ってしまったらしいのです。
上田市は、道でタクシーが拾えない
東京人の私は知らなかったのですが、上田市はタクシー乗場以外の路上でタクシーを拾うことは市の条例で禁止されているそうです。
最初に上田に来た時に、路上で手を挙げても「ダメダメ」と手を振って停まって貰えなかったことがあり、乗車拒否をされたと思ったのです。
タクシー乗り場以外で利用するには、電話で呼ばないといけないと後で知りました。
ですから乗り違えたと、安易に途中下車しても交通手段がない。
仕方なく終点まで行き、そこから鹿教湯行きに出発するのを待つしかありません。
どうかしてます
方向感覚には自信があったのですが、大失態。
今日はどうかしています。
おまけにバスを待つ間に、書類は側溝に落としてしまった。
今日はホントにどうかしてます
無理して拾おうとして、溝にドボンだなんて嫌なこった。
側溝まではとても手が届く深さではありません。
丁度良い長さの枝を拾ってきて、それで取ることにした。
草だか溝だかわからないフワフワした縁から細心の注意を払って、なんとか紙を拾うことが出来ました。
葬儀屋さんと病院での待合せ時間は刻一刻と迫ってます。
葬儀屋さんに電話しました。
「すみません。実は反対方向のバスに乗ってしまって、今《下秋和車庫》と言う所にいまして・・・」
すると葬儀屋さん
「そのままそこにいらしてください。うちはその場所から3分くらいの所にあるので、〇〇さん ( 私のこと ) をピックして一緒に病院に行きましょう」
渡りに船・地獄に仏・大海の木片
まあなんとラッキーなんだろう。
結局、葬儀屋さんに助けられスムーズにことが運びました。
用事が終わったので、一旦東京に戻ります。
通夜は明後日。
夕食は、MOURI が買っておいてくれたオリジン弁当に、私が衝動買いしたお寿司でした。