村松友視 著『鎌倉のおばさん』を読了
鎌倉のおばさんとは、村松友視の祖父・村松梢風の愛人だった絹江のこと。
絹代は梢風死去、鎌倉の家で一人暮らしていたが、梢風の菩提寺である覚園寺先代未亡人宅で倒れて亡くなる。この物語は絹江が亡くなったというところから始まるのだが、この絹代という女性が梢風をしのぐ型破りな人物だった。
どんなに型破りかというと、絹江は梢風が死んだ後の鎌倉の豪邸に一人で住んでいるのだが、その家は電気もガスも水道も止められて荒れ放題の状態で、絹代が死んだ後に鎌倉の家を訪れた友視や伯父はその荒れように驚く。
玄関は開かず勝手口木戸を無理やり壊して入室した宅内は、床中に新聞紙が敷き詰められて真っ暗の状態。
風呂にも入れない絹代は、近所の風呂屋に通っていたが、高齢で何回も倒れて出禁になると、覚園寺にもらい湯に行きその風呂で死去した。
著者が語る、村松家の様子は凄まじすぎる。
まず著者の生い立ちから説明すると、こんなこと⤵
著者 ( 以下 友視と記す ) の父・友吾は、友視が母のお腹にいる時に上海で客死。
祖父・梢風は、若い未亡人の将来を案じて友視の母に再婚をすすめ、産まれた友視を梢風自身の五男として入籍する。
※ 友視は「母は死んだ」と言われて育つ。
だが梢風は戦後疎開先から鎌倉で愛人・絹江と暮らし、友視は清水で祖母・そう ( 梢風の正妻 ) の手で育てられる。
この本は、祖母と住む清水から、梢風と絹江が暮らす鎌倉を行き来している頃の友視の視点で描かれた私小説で、本文には梢風の友・小島政二郎の著書『女のさいころ』や、伯父・瑛の著書『色機嫌』などからエピソードが随所に盛り込まれていて、梢風の奔放な女性関係がつづられている。
本書を読むと、梢風がいかに女好きであったかがわかる。
だが困ったことに梢風の女たちは幸せになったかというと、そうでもない。
梢風は戦争中、絹江や息子たちを残し一人でさっさと疎開してしまったり、正妻に幼い友視と自分の母親の面倒を押し付け、自分は鎌倉で絹代と暮らしたりしている。
つまり人に面倒をみさせる甘え放題の人生だった。
それでも彼の周りにはいつも女がいた。
郷里でそのと結婚し、お梅という囲い者とねんごろになったり、九重という吉原の花魁に入れあげたりして悪い病気を妻と下宿の女中おたみにうつして知らぬ顔を通した。続いて吉原の稲葉のもとに通い、京都の宿の女中・およねと深い関係になったのち、志那へ渡り、愛人よし子を連れて帰国、再び上海に渡り謝姉妹と知り合うが熱愛の度が過ぎて愛想をつかされる。やがておよねを身近において暮らすが、およねが亡くなると絹江と暮らすようになる。
私が一番興味深かったのが、絹代ともうひとり、京都の女中だったおよねだ。
およねは当時珍しい女学校出で、美人ではないが文学少女だった。
およねと梢風の会話は先日『暗幕のゲルニカ』にも引用したが、梢風にとっては珍しく文学の話ができる相手だった。
再度その会話を⤵
「先生のお書きにならはったもの、どうして二つに分かれてるんどっしゃろ」
「二つに分かれている?」
「本当の話と、嘘の話とに・・・」
「そりゃあ仕方ありませんよ、本当の話と嘘の話と、題材そのものがちがうんだから」
「そやけど、嘘の話を書いたかて、本当の話にするのが小説家の役目とちがいますやろか」
小説の真髄に触れてくる よね の意外な言葉に、梢風はとまどった。
「先生のお作は、あまりにはっきりと、これは本当の話や、これは作り話やと分かれていすぎると思うんどす」
「なるほど、それは僕の腕前が未熟だからでしょう」
「それも当たってへんのとちがいます?」
「・・・・」
「先生がお調べやしてお書きになったもの、たとえば『乞食雲坪』みたいなものと、小説の『二人大名』みたいなお作を較べさせてもらいますと、先生の情熱の打ち込み方がまるでちがうような気がするんどすわ」
「そうかもしれないですね」
「なんでどっしゃろ・・・」 p.94
一方、絹代はよねとは正反対のタイプだった。
梢風の作品は読まないが、彼の生活態度や服装を派手に変えていった。
外出の際には大金を持たせ、派手な洋服を着せて送りだす。
大作家の風格をつけることで、彼を一流の文士にのしあげていったようである。
こうした二人の愛人の陰にひっそりと隠れてしまっている正妻のおそののことも、
孫の友視は冷静に描いている。
自分の家庭がこんなややこしくて複雑なのか勘弁だが、傍からみる分にはいい。
自分の家族の恥部をこれほど書いても、そこに厭らしさを感じさせないのは、
著者の根っこの部分の品格によるものかなと思いながら読了した。
鎌倉の家は現在もうなく、正確にどの当たりかはわからない。
本文に「鶴岡八幡宮の前を右へ曲がって大塔宮や浄妙寺へ向かうバス通りを生き、右手に魚屋があるあたりを左に折れると、横浜国立大学寮がある。その塀に沿って歩き、「西御門」と記された石碑の前を右へ曲がると、薄暗い小路の湿った土の匂いの包まれた」とあるのと、頼朝の墓の手前とあることから、
島木健作が初めて住んだ家の辺りのことと思われる。
恐らくは、この地図の「よりとも児童遊園」のあたりではないかと思う。
次回鎌倉に言ったら図書館で古地図でも調べてみたいと思っている。
本日の昼ごはん
蟹チャーハン