ちくま評伝シリーズ ポルトレ《市川房枝》読了

市川房枝さんのお名前はよく知っていたが、具体的になにを成し遂げたかはよく知らなかった。
晩年の第二院クラブでの活動も、まだ小学生だったのでよくわかっていなかったといっていい。

明治26年生まれの市川さんは、愛知県の農家の四番目の子として育った。
父は気に食わないことがあると、母に手をあげるような人だったが、
子供の教育にかけては熱心で、女の子たちも上の学校まで出している。
当時としては珍しいことで、先進的な考えをもった人だった。
母にはつらくあたる父親だったが、娘たちには女らしくしろ、などとうるさいことは言わず、一生懸命に学問をするように教育した。
その甲斐あって、市川さんの長兄は、アメリカに渡り大学へと進学。
長姉も奈良の女子高等師範学校へ進学し、妹は名古屋の淑徳女学校を出たあとにアメリカに住んでいた日本人と結婚し、やはり渡米している。
市川さんも、教員、新聞記者を経て渡米もしていて、紆余曲折あって政治家になっている。
彼女の最大のテーマは、男女平等の世の中になること。
そのために婦人参政権を獲得することが必要だと考えた。
理想選挙の実現
彼女の後半生で成し遂げた偉業のひとつに、選挙に関する常識を覆したことがあげられる。
通算二十五年にわたる議員生活の中で、すこしずつその内容は変化をとげたものの、一貫した理念は「議員は出たい人より出したい人を」というものだった。
選挙運動の推進者は、個人の立候補を望む推薦会。
候補者は、政見放送や一部の演説会以外、選挙運動をしないというものだった。候補者は選挙費用を出さず、立候補を望む人が持ち寄った献金を使って補う。一人から多額の寄付を受けずに、支出は節約し、収支を明らかにする、選挙違反に問われるようなことはしないのはもちろんのこと、法律で許されていても、トラックや拡声器など使わないという徹底したものだった。
それでも彼女が当選できたのは、《市川房枝》という人を強く推す支援者の数だったのだろう。
この評伝を読んでも、沢山の文化人との強いつながりがわかった。
赤毛のアンの翻訳者・村岡花子とは若い頃からの付き合いだった。
青鞜の平塚らいてうとも共に闘ってきた。
新宿中村屋の創業者で随筆家でもある相馬黒光からは、代々木の土地まで提供してもらっている。
代々木二丁目に今もある、婦選会館の土地がそれだ。
黒光は、最初の二年は地代はいらないと、破格の扱いをしてくれたらしい。
会館の所有は、婦人問題研究所とし、一部屋が新日本婦人同盟の事務所になった。婦選会館にはスタッフの住居や、外部の人々が会議や宿泊ができる施設もあった。



懐かしい! 10年ほど前にこの隣のビルで仕事をしていた。
現在、そこには市川房枝記念館もあるという。
近々、記念館を訪ねてみたいと思っている。
2026年04月29日 昼ごはん
味噌煮込みうどん

2026年04月29日 夜ごはん

この茄子とひき肉のカレー炒めも、例のカレー味のそぼろで作りました (;^_^A
