映画『ある男』を鑑賞
昨日お話した小説『ある男』の映画版です。
前半かなりの時間を割いて、里枝と大祐 ( X ) が知り合う頃の話や、家庭生活においての大祐の様子を描いている。それによって、里枝と息子・悠人 ( 大祐にとっては義理の息子 ) の喪失感がよく理解できた。
悠人と花
映画に思いがけないシーンがあり、驚いた。
悠人が母親に「花ちゃんには ( お父さんのことを ) 僕から話すよ」という言葉だった。
これは小説にはないセリフ
実は、前記事のコメント欄に、私はそれと同じことを書いたばかりだった。
《 犯罪者の息子だということを世間のバカな大人が軽薄にけなしていますが、もし花がそれを気にする年ごろになった時に、「後のお父さん」がどんなに素敵な人だったかを言ってあげられるのは里枝よりも悠人なような気がします》
※ この辺から ネタばれになります。長くなります。
観てない方 ( 読んでない方 ) には伝わりずらいかも知れません。
もしなんでしたら飛ばしてください。
大祐 ( X ) 以外の男たちの事情
映画で残念だったのは、X以外の戸籍交換した男の描き方が若干薄いこと。
本物の谷口大祐
映画では《稼業を継ごうと思っていたが、長男が出戻り後継ぎに納まり、両親や兄と確執が生まれ疎遠になった》という話を、兄役の眞島秀和が卑劣な口調で表現している。
だがこれだけの理由で、人は《他人と戸籍を交換し別人として生きていく》という選択をするだろうか。
原作では、理由をもうひとつ書いている。
《親が長男を溺愛》だけではなく《生体肝移植》の一件である。
父親に癌がみつかり、かなり進行していて、移植手術の話になり親族からの生体移植が唯一の方法となった。
兄 ( 長男 ) は脂肪肝で不可能、弟の自分 ( 次男 ) は適合。
父親は生まれて初めて自分に頭を下げ「親孝行して欲しい」と手を握って泣いた。母と兄は直接、父の願いを叶えてやるべきだとは言わなかったが、そんなことはしなくてもいいとも言わなかった。
最終的に自分も生体肝移植に同意することにしたが、父の癌の進行が予想以上に速く、自分が同意を悩んでいる間に、手遅れの状態になった。父は、恐ろしく腹立たしげな、ほとんど憎しみを湛えたような顔で死んでいった。
家族みんなで悲しんだが、母も兄も、無意味になった自分の決断に対しては、金輪際、優しい言葉をかけてくれなかった。
p.32
こういった経緯があり大祐は「自分の中の何かが、もう決して元に戻せないくらい壊れていることに気づいた」という。
やはり私は、このくらいの理由なくしては《戸籍を捨て他人になる》という穏やかでない決断はしないのではないかと思う。
だがここで問題がひとつある。
これを語ったのは、本物の谷口大祐ではないということだ。
この話をしたのは、本物の大祐ではなく、谷口大祐と戸籍を交換したXだった。
つまりXは、谷口本人から聞いた話を 盛った可能性も考えられるのだ。
一方、谷口の兄はこの件を「弟の性格 逆恨み」と非難する。
違います、全然。
そのなりすましてた男が勘違いしてるんですよ! それか、大祐がそいつの話をねじ曲げて喋ったか。⸻それは、オヤジには家族全員、長生きして欲しいと思ってましたよ。大祐だってそうですよ。当然でしょう? けど、あいつにドナーの無理強いなんて、絶対してないですよ! あいつが自分から進んでドナーになったんですよ。それを、あとになってヒネくれてグチャグチャ言って。いつもそうなんですよ!
~中略~
大祐はヘンに逆恨みしてんです。ガキみたいに妬んで。バカでしょう?
p.44
弁護士の城戸はこの件を、谷口大祐の元恋人・美涼からも聴取しているので、
生体肝移植のゴタゴタは、兄よりも Xの語ったことに真実味がある。
だかしかし、こういった話は当事者の立場や性格で色々に変わってしまうこと。
一方の話だけを聞き鵜呑みにはできないことを改めて感じられる興味深い話だった。
映画化は難しい、よくまとめられている。だが・・・
2時間という上映時間の中に、原作の全ての要素を詰め込むのは無理な話だ。
だがしかし。
戸籍交換という尋常ではない行動に踏み切る男たちには、相互にそれぞれ事情がなくては成立しない。
Xだけではなく、本物の谷口大祐側にもそれなりの事情もあるはずだ。
原作では、戸籍を変えた男が4人出てくるが、映画は3人に割愛されている。
「曽根崎」という男は、映画にも小説にも名前だけの登場だが、その男が自分が交換した「原誠」の戸籍を、更に別の男にに押し付けている。
押し付けられた男は「田代」という知能障害者で、窃盗症 ( クレプトマニア ) で何回も逮捕されている。
彼は「自分が頭が悪いのは、ボクシングで頭を殴られたからです」と、「原誠」の名前だけでなく、原誠がやっていたプロボクサーとしての経歴まで口にしている。
このように戸籍を一度変更しても不都合があったりすると、再度戸籍交換をすることがあるらしい。
その辺の闇の部分を語るのが、戸籍交換のフィクサーである小見浦だ。
※ 小見浦は、詐欺で服役。映画では柄本明が好演していた。
小見浦は、Xの謎を知るために面会に来た弁護士・城戸を一目見てこう言った。
「イケメンの先生、あんた在日だろう」
闇の世界を知りつくした小見浦にとって、スーツを着てインテリ然と治まっている城戸も、
自分の周りにいる「ワケアリ人物」と同じだった。
小見浦が城戸を「在日」だの「マヌケ」だの、「在日っぽくない在日ってことは、つまり在日っぽいことなんですよ」と罵倒するのは、単なる心理的なゲームなのだろうが、城戸にとってはこの言葉が、ボディブローのように効いていく。
城戸の苦悩
私は、小説の城戸は背筋がピンとしていて、思慮深く優秀でものスゴい男と感心し好きだった。
妻との諍いでも決して声を荒げず持論を押し付けない。
他人の軽はずみの言動も一旦心に収め、同僚の意見も違うと思っても再考する。
そんな性格だから余計に、受け止めきれないものが澱のように溜まるのだろう。
それが、逃避したい欲望に駆られる、要因のひとつになっているのではないだろうか。
私は小説の、そんな城戸章良が好きだった。
だが、映画の城戸はちょっと違う。
小説は、とあるバーで城戸が作家と知り合うシーンから始まる。
城戸は作家に対し、偽りの名前 ( 谷口大祐) を語り、偽りの境遇 ( 谷口の実家の話 )
を語る。
作家と打ち解けたところで城戸は「違う人間を語っていた」と告白する。
作家が理由を聞くと、言葉を選びながらこう言った。
「他人の傷を生きることで、自分自身を保っているんです」
映画では、このシーンをラストに使っている。
終盤、城戸が妻の不貞を知った後に、このシーンが設けられているのだが、
それだと城戸が逃避したい訳が、妻とのことに集約してしまう印象が強くなる。
城戸本人の心や、作家の思惑はわからないが、
坂戸が自分自身を保たなければいけなかった理由は、もっと多様で、もっと説明しにくい深い部分にあるような気がする。
原作にはこんなエピソードもあり、それが理由ではないかと思わせられる。
- 近い将来 必ず起こるであろう南海トラフを思う時、関東大震災で韓国人が惨殺されたことが頭をよぎり、自分と家族にも起るのではないかという恐怖
- テレビでヘイトスピーチの映像を見ていた時、妻がいきなりテレビを消し「こんな差別の問題、子どもに見せていいと思っているの?」となじられたこと
- 詐欺師の小見浦に「先生、在日でしょう?」と見抜かれ、マウントを取られたこと
自分が在日三世だということから端を発し、地震の問題、社会情勢、妻の何気ない差別的な言葉、小見浦のマウント発言などが色々積もり積もった先に、Xのように別の人間になることへの密かな逃避願望が芽生えたのではないだろうか。
城戸が《Xとは誰か》にのめり込んでいくのも、ここに鍵があるのではないか、そう思わせるエピソードが小説には沢山つまっていて、作品の厚みが濃いものになっていた。
私の思う城戸は怒鳴らない
だから、私の思う城戸章良はむやみに怒鳴らないのだ、物に当たらないのだ。
騒ぐ子どもが投げたぬいぐるみで仕事の書類が水浸しになったのを、大きな声で怒ったり、谷口兄が、里枝の面前で弟やXを愚弄するのを見て、手にしていた書類で机をバンと叩いて怒ったりする態度は、城戸章良に似つかわしくない。
そんな態度でガス抜き出来るような人間なら、城戸の逃避願望はないのではないかと思った。
それ以外のシーンの妻夫木さんは、治まりもの良く素晴らしい城戸を好演なさっていた印象なのだけれど。
最大の見どころ
この映画の見どころはやはり、里枝役の安藤サクラさんと、息子役の坂元愛登くんのシーンだった。
桜の木の下や、
車の荷台で、亡き父や、妹について語るシーンに心が洗われた。
※ 映画「ある男」で里枝の息子・悠人(ゆうと)役を演じたのは、坂元愛登(サカモトマナト)です。2009年生まれの東京都出身で、2022年に製作されたこの映画でスクリーンデビューを果たしました。
本日の昼ごはん
今日はウクレレの日なので、昼すぎにしっかり食べたいそうです。
本日の夜食
しっかり食べた残りのご飯がおにぎりになりましたとさ。
鰺フライは、MOURI のお土産
ネタバレ ひみつのメモ書き